Happy Happy New Days 前編


「それじゃ、行って来ますよ」
「あぁ……」

ベッドからニュッと伸びた白い腕がヒラヒラと手を振ったかと思うと、眠たげな声がベッドの中から無愛想な返事を寄越す。そのまま、白い腕は暖かい寝床の中に引っ込んでしまい、後はウンともスンとも云わない。
どうやら寝床の主は、休日の二度寝と洒落込んでしまった様だ。
最も、そうなる原因の一端を担っている身としては、気怠く疲れ果てた身体が睡眠を求めるのを責める気にはなれない。
口中で「ゆっくりお休みなさい」と呟きながら、左近はそっと寝室を後にした。





年末年始は、ずっとふたり一緒だった。
誰かと年越しを過ごすなど、いったい何年振りだろう。
人混みが嫌いだ、という彼。だから、左近は彼を無理矢理連れ回すよりも、いっそのこと世間のすべてに背を向け、ふたりきりの誰にも邪魔をされない隔絶した世界を構築することにした。

冷蔵庫が満杯になるほどに食料品を買い込み、彼が見たがっていた映画も山程レンタルしてきた。
毎年恒例のツマラナイ番組は、時の流れを刻んで知らしめるだけ。だから、そんなものは一切シャットアウト。
勿論、自宅の電話は留守電。携帯電話の電源もオフにした。

唯一、時間を知らせるのは壁に掛けた時計だけ。

そんな小さな甘い世界の中、ふたりで好きなだけ寝て、好きな時間に起きて、好きなことをする。
ふたりで何をするともなく語り合ったかと思うと、それぞれが好き勝手にレンタルをした映画を見たり、読みかけの本を読んだりもした。
一日中、ベッドの中で彼の白い身体を抱き締め、時に激しく求め、時に優しく抱き合い眠りにつく。
例えようもない程の幸福な時間。

だが、時は確実に流れていく。





少々遅めの出勤。ゆっくりと朝食を取る暇もなく、左近は出かけにミルクを一杯、腹に詰めただけで冷たい風の吹く街路へと歩き出す。

本日は、世にいう「仕事始め」。
意地の悪い今年の暦は、この「仕事始め」の日付を正月休みと三連続く休日との間に設けている。もし、これが昨年ならば、特に気にすることなく混み合う電車に乗り込むであろう。しかし、今年は出勤する足が何とはなしに重くなる。
その原因はわかり易すぎるくらいにわかっている。ベッドに残してきた恋人の肌の温もりが名残惜しい。そのベッドの住人は、今をときめく大学生。当然、「仕事始め」などという世知辛い習慣とは無縁であり、当分の間は「冬期休業」。一般社会人の羨望を受けつつ優雅に過ごせる身分である。


     あぁー、俺も学生に戻りたいねぇ


そんな不届きな思いを小さく溜息で吐き出しつつ、左近は駅前のロータリーを突っ切った。





駅の階段手前。
左近の携帯が鳴る。着信履歴を見ると、職場の部下からだった。

「もしもし」
「あっ、室長ですか?」

電話越しに聞こえる明るい声。部下の女性社員のものだった。

「どうした?」
「はーい! 今日と明日、お休みを頂きますのでご連絡です〜♪」
「えッ!?」

突然の休日宣言に左近は目を丸くする。

左近の勤務する会社は、名のある有名企業ではないが業界ではそこそこの知名度を誇る。社員数よりも社員の質を重要視する気風のせいか、社員数は中小企業程度。
勿論、左近の所属する部も大人数ではないが、その殆どが、今日明日の有給を申請し大型連休を楽しんでいると記憶していた。
重要な案件は、既に年内に完了済み。本当の意味での仕事始めは、三連休明けとなる予定であった。ボスである社長の筒井氏自ら、「適度な休養も仕事の内」と標榜をしていることから、社風として有休を有意義に使うことに異論も出ない。よって部内の社員の殆どが休むことに何の問題もなかった。
左近が真面目に出勤をするのは、長と名のつく役職城の蛇足の様なもので取り立てて必要に迫られてのことではない。

ということは――――

「すると、今日、俺の部……出勤するのは……」
「そうでーす。松倉さんと島室長だけでーす」

入社以来のライバルであり親友でもある松倉右近。
仲の良い同僚ではあるが、仕事始めのガランとした社内で彼とふたり……


     ちょっと、イヤかも……


島左近。士気低下――――
益々、ベッドの中の暖かい温もりを恋しく思いながらも平静を装う。

「あぁ、わかった。仕事がないなら休んでも構わないよ」
「ありませ〜ん。というか、今日、出社しても取引先も軒並みお休みですよ。やることといえば、せいぜい年賀状の整理くらいですよぉ」
「そういえば、そうだな……」

脳裏に刻んだスケジュール帳を開いてみるが、確かに取引先の殆どが会社丸ごと休みだったり、会社は仕事始めでも担当者が休みだったりと、出社しても仕事らしい仕事はない状態だ。
その上、松倉とたったふたりで机を並べる絵面を想像して、厭世的な気分で重く沈み込みそうだ。
電話越しにでもそんな気持ちが伝わったのか、携帯電話の向こうからクスクスと忍笑う声が聞こえる。

「室長。今、ひょっとして出社するの『イヤだなぁ』とか『面倒くさいなぁ』とか、思っていません?」

こういう時の女の勘は、なぜだか異様に鋭い。左近の微妙な声色から沈み込んだ気分を的確に察して来る。
別段、仕事の愚痴を零しているわけではない。多少、出社が億劫になっているだけだ。誰しもが普通に持っている感情の一端。だいたい、周囲は大型連休を楽しんでいる傍らで、男ふたりの寂しい職場など、楽しい気分で行けるものではなかろう。
平時は、非常に優秀な仕事振りで滅多に私情を挟むことのない左近が、珍しく仕事に対して二の足を踏んでいる。
そんな、左近の雰囲気を目敏く察して、彼女は楽しげに笑っている。イヤ、この場合は耳聡いというのか?

「……当たりだよ」

まぁ、取り立てて隠し立てする必要もない。たまにはこういう姿を見せて、スキンシップを図るのも人間関係の潤滑剤だ。
左近が苦笑混じりに素直に心情を吐露すると、相手もウンウンと頷く。

「じゃ、室長も休んじゃえば? 突然の有給申請。同罪になりましょうよ〜」
「それは、なかなか魅力的な提案だな」
「じゃ、松倉さんへの連絡、よろしくお願い致しま〜す」

そう云って、携帯電話は小気味よい音を立てて切れた。
体良く巻き込まれた様な気もしないではないが、どのみち完全に仕事をする気も失せている。となれば、早速やることは決まっている。
左近は素早く携帯電話からメールを発信する。送信先は松倉右近。ただし、アドレスは携帯電話のものではなくパソコン用のメールアドレスを選択。

誰も出てくるはずのないオフィスで、出社一番にメールをチェックする松倉の苦虫を潰した様な顔を想像しつつ、左近は足取り軽く来た道を戻って行った。





2007/01/06